生成AIの進化により「SaaSの常識」はどう変わるのか
本稿では、2026年2月18日に開催された「Developers Summit 2026」のDay1「Dev x PM Day」で行われたセッション「生成AI時代のSaaSにおける、データでのMoatのつくりかた ─ 法務特化AI『Legal Brain エージェント』の事例を元に ─」の模様をお届けする。
近年、CursorやClaude Codeなどの登場により「Vibe Coding」と呼ばれる新たな開発手法が流行している。さらに自律的にタスクを遂行するAIエージェントの進化を背景に、ソフトウェア開発のハードルは劇的に下がった。界隈では「SaaS is Dead(SaaSは死んだ)」という極端な言説すら飛び交い、市場に動揺が走っている。
これに対し、法務特化AI「Legal Brain エージェント」の開発を牽引する稲垣氏は「一括りにSaaSが死んだとするのはおかしい。SaaSの何が死んで、何が生き残るのか、その『賞味期限』を切り分けるべきだ」と指摘する。
同氏の分析によれば、SaaSの強みの中で「ユーザー数単位のシート課金による自然成長モデル」や、単なる「業務に特化した機能やUIの作り込み」は、生成AIによって代替されるリスクが高く、賞味期限が切れつつある領域だという。
一方で、AI時代になってもビッグテックに飲み込まれない、あるいは模倣が困難な要素として、稲垣氏は以下のポイントを挙げる。
- リスク対応への「信頼性」(セキュリティや障害時対応)
- 企業が半永続的に利用するための「継続利用」(保守やカスタマーサクセス)
- 移行に伴う「スイッチングコスト」
- 法規制や業界ルールへの適合といった「業界規制など」
- 業務を通じて蓄積される「データ」
「『〇〇システムを作って』と言えば作れてしまう時代だからこそ、LLMが得意なことやこれから得意になることには投資しないと決めた」と稲垣氏は語る。汎用的なLLM機能(要約など)に依存せず、いかに自社にしか獲得できない「独自のデータ」を確保し、それを強固なMoatとして育てていくかが、これからのプロダクトマネージャーに求められる最重要テーマとなる。
自社にしか手に入らない「データのMoat」を獲得する
では、実際にどのようなデータが強力な「Moat(モート:競合他社が容易に真似できない、自社プロダクト独自の防衛線・競合優位性)」になりえるのか。弁護士ドットコムが展開する「Legal Brain エージェント」の事例は、あらゆるドメインのプロダクトマネージャーにとって大きなヒントとなる。
同社が戦う法務(リーガル)領域のデータは、世界的視点で見れば「極めてローカルなデータ」である。日本の法令を利用するユーザーは世界人口のごく一部であり、巨大なグローバルテック企業が優先して取りに来る領域ではない。
加えて、日本の判例データは「オフライン」に偏在しているという特徴がある。そのため、弁護士ドットコムグループにジョインした「判例秘書」というサービスは、約30年前から裁判所に直接足を運び、紙の判例をスキャンしてデータベース化し続けてきた。
「これはものすごいMoatです。もう二度と同じことはできないのではないでしょうか。最高裁の判例も一部しかオンライン化されていないため、弁護士の方はこれがないと判断できず、非常に大事なデータなのです」と稲垣氏は強調する。
さらに同社は、約50社の法律系出版社と1社ずつ個別にライセンス契約を結び、約2600冊もの専門書籍データを合法的にデータベース化している。専門家が実務で活用するためには、根拠となる一次情報(書籍や法令)への厳密なトレーサビリティが不可欠だからだ。
この事例から導き出される汎用的な示唆は、「インターネット上に転がっているオープンデータだけで勝負しない」ということだ。医療、建設、製造、金融など、それぞれの業界において「オフラインに眠っているデータ」「ライセンスの壁に守られているデータ」「長年の泥臭い営業努力でしか集まらないデータ」を見つけ出し、独占・集約化することこそが、生成AI時代の強力な防壁となる。

