データを活かし「価値」に変える、中間データの作り込み
独自のデータを確保したとしても、それらを単にLLMのRAG(検索拡張生成)に組み込むだけでは、専門的な実務に耐えうるプロダクトにはならない。
開発初期、稲垣氏のチームは「RAGの精度が上がらない」という壁に直面した。例えば「株主総会決議を経ずに取締役に報酬を渡した場合……」といった日常言語による質問に対し、「会社法」の関連条文をベクトル検索などで適切に引き当てることは非常に困難だった。法令の言葉と日常言語がかけ離れすぎており、「最適な法令」を言語的な類似性で取得することが困難だったからだ。
ここで稲垣氏は、プロダクトマネージャーの基本に立ち返り「ひたすら顧客の元へ行き、観察し、話を聞く」という泥臭いリサーチを徹底した。
「弁護士の方の動きを観察して気づいたことがあります。彼らは質問を受けても、いきなり条文(法令)を開くわけではありません。まずは信頼できる解説書やガイドラインを読み込みます。そこに含まれる会社法や判例の引用を足がかりにしてから、ようやく実際の法令を確認しに行くのです」
この専門家の思考・探索プロセスをシステムで再現するために開発されたのが、巨大な法令ナレッジグラフ「LegalGraph」である。法令、判例、ガイドライン、書籍といった膨大なデータ間の「参照・引用関係」を紐付け、数億単位のレコードを持つ中間データベースを作り上げた。これにより、日常言語での質問と専門的な法令との間にある「言語的不一致の壁」を吸収し、まるでプロが探すような驚異的な検索精度を実現したのだ。
もう一つの機能「判例エキスパート」でも同様のアプローチが取られている。弁護士が戦略を立てる上で不可欠な「過去の類似判例探し」において、単なるキーワード検索ではなく「要旨」や「争点」「判断の分かれ目」などを要素分解し、メタデータ化を行っている。
これにより、AIが単に条件に合致する判例を提示するだけでなく、「条件は完全に一致しませんが、過失割合が7割未満となった参考事例があります」といったように、アシスタントとして気の利いたインサイトを提供できるようになった。
これらの磨き込みの結果、若手弁護士が1日かけて行っていたリサーチ業務が、わずか数十秒に短縮されるという圧倒的な価値創出に成功している。
ここでの重要な教訓は「自社のRAGプロセスに最適化するように、中間データを作り込めるかがキモ」という点だ。AIプロダクトの開発において、プロダクトマネージャーは技術に溺れることなく、ユーザーの業務プロセスを深く理解し、「プロの思考回路」をいかにアーキテクチャやデータ構造に落とし込むかに注力すべきである。
価値をさらに伸ばす「Evals(評価)」の構築と組織づくり
生成AIプロダクトがPoC(概念実証)を抜け、実際の業務現場で導入・活用されるための最大のハードルは、「出力の精度とその定量評価(Evals)」にある。
特に法務のような専門性が高い領域において、「何が良い回答なのか」をAIエンジニアだけで定義することは不可能に近い。そこで弁護士ドットコムでは、ドメインエキスパート(弁護士)が、「プロダクト開発チーム」に所属している。彼らがAIエンジニアと密に連携し、評価データセットの作成や評価の自動化ツール構築を通じて、高速なイテレーションを回しているのだ。
「AIアプリケーションの次の戦う場がここ(Evals)に来ている。これをやり切っていくと、また新たなMoatになっていくはずだ」と稲垣氏は力強く語る。
高度なドメインエキスパートを開発プロセスに巻き込み、チームとして「正解の基準」を作り上げていく組織体制そのものが、他社には容易に真似できない競争優位性となる。
AI時代も変わらないプロダクトマネージャーの本質
生成AIの波はソフトウェア開発のあり方を一変させたが、プロダクトづくりの本質は変わらない。
「顧客がお金を払ってでも解決したい課題は何かを見つけ、解像度を上げ続けること。そして、自分たちしか持ち得ないデータは何かを問い続け、ドメインのニーズに中長期でコミットし続けること」と稲垣氏は結論づけた。
弁護士ドットコムが向き合う「リーガルテック」という領域は、専門家の深い知見と最新のAI技術を掛け合わせてプロダクトへと昇華させる、極めて難易度が高く、同時に知的好奇心を刺激されるチャレンジングなドメインだ。同社では現在、プロダクトマネージャーやエンジニアをはじめとする多様なポジションで採用を積極的に行っている。
「Legal Brainは脳みそであり、さまざまな企業様のアプリケーションと連携できると非常に面白いことになる」と稲垣氏が語るように、SaaSの枠を超えたエージェント連携の未来を描く同社の挑戦から、今後も目が離せない。生成AI時代の荒波を乗り越えるため、自社プロダクトの「データ」と「ドメイン専門知」の価値を今一度見つめ直してみてはいかがだろうか。
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