作りたいのに作れない「巨大プロダクトのジレンマ」
NTTドコモが提供するスマホ決済アプリ「d払い」。ユーザー数7000万人超という圧倒的な顧客基盤を持つこの巨大プロダクトは、今まさに「週次改善」というスタートアップ顔負けのスピードで進化を続けている。
一般に、サービス規模が拡大すればするほど、組織は分業化され、意思決定のスピードは鈍化する。「作りたい機能があるのに、調整に時間がかかる」「リリースした施策の結果がわかるまで数週間かかる」といった課題に頭を抱えるプロダクトオーナー(PO)や企画担当者は少なくないはずだ。
なぜ、d払いはその壁を突破できたのか。
2025年12月4日に開催された「プロダクトマネージャーカンファレンス 2025(pmconf 2025)」のセッション「“出す→学ぶ→直す”を高速化せよ」(講演資料)において、NTTドコモの阿部能人氏(UIUX主管/プロダクトオーナー)、桜井海匡氏(プロダクトオーナー)、そして分析基盤の構築を支援したDearOneの益子貴博氏が登壇。
その裏側にあったのは、徹底的な「組織構造の変革」と、意思決定のボトルネックを排除するための「武器(データ基盤)」、そしてそれを支える「参謀(パートナー)」の存在だった。
講演の司会を務めた、株式会社DearOne グロースマーケティング部 アナリティクスユニット
ユニットマネージャー シニアコンサルタントの益子貴博氏
「機能改善」と「新規開発」のチーム分割
「d払い」は、決済機能のみならず、投資、保険、クーポンなど、多岐にわたるサービスを包含するスーパーアプリへと成長している。しかし、その多機能さと規模ゆえに、かつては改善のスピード感に課題を抱えていた。
「利用者が多いということは、それだけ『お客様の声』も膨大になります。また、決済、ポイント、加盟店、セキュリティなど、関わる部署もKPIも多岐にわたるため、その点からも解決が必要な課題が多い状況でした」(阿部氏)
株式会社NTTドコモ ウォレットサービス部 UIUX企画担当
UIUX主管/プロダクトオーナー 阿部能人氏
ドコモでは以前からアジャイル開発体制を導入していたものの、リソースが分散し、本来目指すべきスピード感(頻繁なリリースによる価値検証)が実現できていない時期があったという。この状況を打破するために踏み切ったのが、開発体制の大胆な再編だ。アジャイルチームを目的別に以下の2つに分割した。
- 機能改善チーム:UI/UXの磨き込みや使い勝手の向上に特化。「毎週リリース」をミッションとし、高速にPDCAを回す
- 新規開発チーム:Suicaチャージやdカード連携など、大規模な開発を伴う新機能を担当する
「声の大きさ」に頼らない優先度スコアリング
体制を整えたことで改善のリソースは確保されたが、次なる課題は「何を直すか」の決定だ。多くの部署から寄せられる膨大な要望に対し、すべてを一度に解決することは物理的に不可能である。
そこで導入されたのが、優先度決定の「スコアリング(数値化)」だ。
- 定量項目:お客様の声の件数、エラー発生数など
- 定性項目:「お客様が行動を完了できない(クリティカルな不具合か)」などのUX基準
これらを掛け合わせて点数化し、誰の目にも明らかな「対応すべき順番」を可視化した。これにより、特定の部署や役職者の「声の大きさ」ではなく、ユーザーへのインパクトを基準としたフラットな意思決定が可能になったのだ。
「分析待ち」で開発が止まる。SQL依存からの脱却
組織のパイプラインは整った。しかし、高速な改善サイクル(ラーニングループ)を回すためには、もう一つ、致命的なボトルネックを解消する必要があった。それが「データの壁」だ。
「以前の環境では、アプリの行動データ(Google Analyticsなど)と、自社独自の決済データが別のデータベースに分断されていました。両者を紐づけて詳細な分析をするには、エンジニアに依頼してSQLを書いてもらう必要があり、結果が出るまで2週間〜1か月かかることもありました」(阿部氏)
週次で改善リリースを行いたいチームにとって、分析に2週間かかるタイムラグは致命的だ。結果がわかる頃には次の施策が動き出しており、データに基づいた振り返りができない。「検証なきリリース」を繰り返す恐れがあった。
武器としての「Amplitude」と、参謀としての「DearOne」
この状況を一変させたのが、プロダクト分析ツール「Amplitude」の導入と、その構築を支援した株式会社DearOneの存在だ。
単にツールを導入しただけではない。DearOneはドコモの複雑なデータ構造を深く理解し、アプリ内の行動ログと、DWH(データウェアハウス)にある決済データをAmplitude上でシームレスに繋ぎ合わせる環境を設計した。
これにより、以下のような劇的な変化が生まれた。
- SQLゼロ化:複雑なクエリを書くことなく、GUI上の操作だけで高度な分析が可能に
- リードタイム短縮:2週間かかっていた分析が、数十分〜数時間で完了
- 民主化:エンジニアに頼らず、企画担当者やデザイナー自身がその場でデータを叩けるようになった
「アプリのイベントデータと決済データが一気通貫で見られるようになったことで、『どの画面を見た人が、実際にいくら決済したのか』というビジネス成果に直結する分析が、誰でも簡単にできるようになりました」(桜井氏)
株式会社NTTドコモ 第二プロダクトデザイン部
プロダクトオーナー 桜井海匡氏
実践例:「ユーザースキャン」を1.5倍改善した分析プロセス
では、実際にどのようにデータが活用されているのか。セッションでは「ユーザースキャン決済(店舗のQRコードをユーザーが読み取る決済)」の改善事例が紹介された。
ロイヤルユーザーの利用頻度が高いこの機能だが、データを見ると「一部のユーザーが決済を完了できずに離脱している」という事象が見つかっていた。以前であれば、ユーザーの課題の仮説検証に時間がかかっていたが、現在のd払いチームはここからすばやく深掘りを行える。
- ファネル分析:決済フローのどこで落ちているかを特定。その結果、「カメラ読み取り」の段階に課題があることが判明
- 属性分析:年代別・利用状況別にクロス集計を行い、仮説を洗い出す
- ジャーニー分析:離脱したユーザーがその前後にどのような行動をとっているかを可視化し、仮説を補強する
これらをAmplitude上で即座に分析した結果、ボトルネックは「カメラのアクセス許諾」にあることが特定された。
従来のアプリでは、カメラ権限がオフになっている場合、OS標準の無機質なテキストダイアログが表示されるだけで、ユーザーは何をすべきか直感的に理解できていなかったのだ。
データが「確信」に変わる
チームはこの結果をもとにUIを改善。テキストだけの案内をやめ、イラスト付きで「設定画面でカメラをオンにしてください」と視覚的に誘導する画面へと変更した。
効果はてきめんだった。改善後の画面が表示されたユーザーの決済完了率は、改善前と比較して約1.5倍に向上。
小さなUIの変更だが、データに基づいてボトルネックをピンポイントで突き止め、その効果を数値で検証できたことは、チームにとって大きな成功体験となった。
「ボトルネックの特定から施策の立案、そしてリリース後の効果検証まで、誰でも自分たちの手でスピーディーに完結できる。これが『価値検証の民主化』です」(阿部氏)
1000人が分析する組織へ。B2Cプロダクトの「勝ち筋」
現在、NTTドコモ社内におけるAmplitudeの利用ユーザー数は1000人を超えている。企画、開発、デザイン、マーケティング──職種の垣根を超えて、誰もが日常的にデータに触れ、共通言語として語り合う文化が定着した。
この変化は、組織の意思決定プロセスにも変革をもたらしている。
「以前はリリースの承認に数日かかることもありましたが、現在はデータに基づいた明確な根拠とスコアリングがあるため、担当者レベルに権限委譲が進み、承認プロセスが大幅に短縮されスピーディーに完了することもあります」(セッション終了後のQ&Aより)
巨大組織でありながら、スタートアップのようなスピード感で「出す→学ぶ→直す」のサイクルを回す。
その結果、外部機関による顧客満足度調査での評価に加え、アプリストア(App Store/Google Play)におけるレビュー評価も「★4.5」を超える水準(2025年11月時点)を記録 。かつては★4以下だった評価が、改善サイクルの高速化により劇的に向上するなど、ユーザーからの支持を着実に伸ばしている。
阿部氏はセッションの最後をこう締めくくった。
「d払いは決済だけでなく、金融領域全体でお客様の生活を便利にすることを目指しています。そのためには、データに基づいたお客様視点の学習サイクル(ラーニングループ)を回し続けることが不可欠です」
「作りたいもの」を「作れる組織」へ。そして「作ったもの」の価値を「即座に証明できる組織」へ。ドコモとDearOneの取り組みは、規模の壁に苦しむすべてのプロダクトチームにとって、一つの「勝ち筋」を示していると言えるだろう。

