はじめに
こんにちは。Cosmowayが組織するデジタルプロダクション「factory4」のUI/UXデザイナー、新谷です。
これまで本連載では、さまざまな事例を手がかりに、体験の構造や設計の判断について考えてきました。特定の答えを示すというより、その時々の変化を通じて「いま、何をどう選ぶべきか」を一緒に問い直していければと思っています。
第3回となる今回は、視点を少し引き上げてみます。題材は、AppleがiOS 26で導入した「Liquid Glass UI」です。
最初にお伝えしておくと、この記事はAppleを批判するためのものではありません。私は長年、iPhoneやMacを使い続けてきたユーザーでもあります。Appleのプロダクトが持つ思想や一貫性には、いまも大きなリスペクトを抱いています。
だからこそ、その変化をただ受け入れるのではなく、少し立ち止まって読み解いてみたい。OSという、あらゆるアプリやサービスの土台となる層でUIが変わったとき、それは私たちの体験に何をもたらしているのか。
今回は、Liquid Glass UIという具体的な変化を手がかりに、「表現の進化」と「プロダクトの判断軸」について考えてみたいと思います。
Liquid Glass UIとの出会い──「これは、たしかに美しい」
iOS 26のLiquid Glassを初めて触ったとき、多くの方が、まずこう感じたのではないでしょうか。
「……きれいだな」
透明感のあるレイヤー。背景を取り込みながら成立するUI。奥行き、光の回り込み、ぼかしの質感。これらは単なる視覚効果ではありません。画面という平面の中に、空間的なレイヤー構造を感じさせる設計です。グラフィックとしての完成度は高く、Appleが長年積み上げてきたビジュアル表現の延長線上に、1つの現在地を見るような感覚があります。
ここで大事なのは、まず素直に「美しい」と言えることだと思っています。UIの進化を語るとき、最初から構造批判に入るのは簡単ですが、それでは本質にたどり着けません。
Appleは今回も、「できること」を前面に押し出すのではなく、「どう感じさせるか」という体験全体を、極めて高い完成度で成立させており、それは単なるビジュアル刷新ではなく、「UIは体験である」というメッセージの延長だととらえられます。
それでも残る、UI/UXデザイナーとしての違和感
一方で、使い続けていくと、UI/UXデザイナーとして、ある種の違和感が静かに立ち上がってきます。
- 視認性は、本当に向上しているのか
- 情報の階層は、以前より直感的になったのか
- それとも「慣れ」がUXを補っているだけではないか
Liquid Glassは、背景やコンテンツを積極的にUIに取り込みます。その結果、情報と背景の境界はあいまいになり、可読性やコントラストは、文脈や環境によって揺らぎます。
ここで立ち止まって考えたくなるのが、「使えている」という感覚の正体です。
それは、UIが分かりやすいから使えているのか。それとも、iOSという文脈に長年慣れ親しんでいるから成立しているのか。私の印象としては、Glass UIは「慣れ」によって支えられている部分も少なくないように感じています。
長年iOSを使い続けているユーザーにとっては(※他のOSやUIにも言えますが)、あいまいな境界も過去の記憶と経験で補完できます。しかし、新規ユーザーや、アクセシビリティ配慮が必要なユーザーにとっては、それが成立しない可能性もあります。
美しさが前景に出るとき、誰かが画面外に押し出されるリスクは常に存在します。UIの美しさと、UXの分かりやすさは、必ずしも比例しません。美しさが理解を助ける場合もあれば、理解を覆い隠してしまう場合もあります。
Liquid Glassは、その微妙な境界線を、かなり繊細なところで歩いているように見えます。それは挑戦であり、同時に問いでもあります。
UIは目的か、それとも結果か
ここで少し視点を整理してみます。
UIは、ユーザーにとっては体験の入り口に見えます。しかし設計の視点に立てば、それは体験の構造が可視化された結果です。表に見えているものは出発点のようでいて、実は設計の結論でもあるのです。
技術的に可能であることと、それを実装すべきかどうかは別の話です。プロダクト設計では、「やれるか」よりも「やるべきか」という問いが、最初に置かれるべき判断軸になります。
Liquid Glassは、この問いを上流から照らし返す題材です。
OSという、すべてのプロダクトの土台となる層でUIが進化したとき、それは体験の構造を変えているのか。それとも、あくまで表現の更新に留まっているのか。ここで問われているのは、Appleの是非ではありません。私たちが、自分たちのプロダクトでUIをどう扱うのかという判断です。
