階層化されたビジョンがもたらす実践知

プロダクトビジョンの階層化を実施して約1年が経過しましたが、ジンジャーはさらにコンパウンド戦略のSaaSとして統合体験を突き詰めることができたと確信しています。以下に、その具体的な効果をご紹介します。
1.ユーザーへの深い理解と「統合体験」の追求
プロダクトビジョンを階層化したことで、「CoreHRは労務担当者向け」「TalentHRは人事担当者向け」と、それぞれのプロダクトが誰のためのものかを明確に整理できました。その結果、社内でプロダクトの「届ける相手」に対する認識が揃いました。
私たちは、企業の人事担当者と労務担当者はそれぞれ独立した役割を持ち、異なるニーズやマインドセットを持っているという仮説を立てています。
- 人事担当者:「攻め」の考え方で、経営視点での人材活用や戦略立案に関心が高い傾向にあります。
- 労務担当者:実務の「守り」を重視し、日々の定型業務の効率化やミスの削減を課題とすることが多いです。
この仮説に基づき、「人事担当者に新しく提供できる便益」と「これまで以上に労務担当者へ提供できる便益」を具体的に考えることができました。
具体例をお伝えすると、労務担当者に向けてはCoreHRだけが便益になるのではなく、「正しい人事データ」を軸としたTalentHR領域までに提供価値を広げることで、彼らの手間を最小限にすることができます。この統合体験の追求が、これまで以上に提供できる便益であると考えました。
一方で、人事担当者に対しては、労務領域までを含む「正しい人事データ」を活用し、企業のタレントマネジメントや人的資本経営の推進につなげていくことを目指しています。そのために私たちは、人事という役割の価値を最大化するための「調理材料」として、データの正確性の担保と可視化に注力しています。
ポイントは「正しい人事データ」という我々のサービスの価値が軸となっていることです。これは、プロダクトビジョンの階層を1つ潜ると、その恩恵を受けるユーザーが「人事」と「労務」で異なり、得られる便益も異なります。労務担当者であれば業務効率化を行うことで蓄積した「正しい人事データ」を、人事担当者であれば「勘や経験で属人的になっていた人事戦略を正しく確信のある意思決定に変える」という、労務と人事をつなぐストーリーとして紡ぐのです。
コンパウンド戦略によるサービスの横展開では、「全体を意識しすぎると個別機能の価値が薄まる」一方で、「個別機能に寄りすぎると全体の価値が抽象的になる」というジレンマが生まれがちです。
そこでジンジャーでは、プロダクトビジョンの上位階層とのつながりを保ちながら、各階層での便益を明確化しました。その結果、「統合体験」としてのプロダクト価値が社内でも共有され、プロダクトが多様化しても、届けるユーザー像やストーリーを1つの軸で語れる状態を実現しました。
2.開発優先順位と事業戦略を明確化
プロダクトビジョンの階層化を通じて、具体的なユーザー像だけでなくマーケットも明確化することができました。マーケットサイズと、それぞれのプロダクトのビジョンから逆算した事業戦略を描くことで、今後プロダクトがどのような進化を遂げると、どのような事業利益を得ることができるのかを推測し、計画を立てることができます。
階層化ができず、全体のビジョンにプロダクトが紐づいていた過去の状況だと下記のような状況に陥っていました。
- 各プロダクト単位で見るとマーケットは狭く、点で描いた機能実装により中長期的な戦略を立てづらい
- マーケットサイズから逆算した事業計画を立てるにも、コンパウンドならではの相乗的効果を期待できない
- 今向き合っているマーケットや顧客に対し見当違いな方向の戦略を打ち出してしまう
このようなリスクが起因し、プロダクトマネージャーが考えるロードマップを関係各所にうまく説明出来ず、優先順位を決めきれていませんでした。
事業拡大を目的にマルチプロダクトへの展開を進めると、プロダクト全体でマーケットを捕らえることに限界が生じます。そのためジンジャーでは、ユーザー像が異なる「CoreHR」「TalentHR」の階層で、一度マーケット戦略を見つめ直すことにしました。
例えば、プロダクトの成熟度が高い「CoreHR」の領域だと、プロダクトごとに見ると顧客に便益を提供できている気になっていたのですが、「CoreHR階層でのプロダクトビジョン」から逆算すると、”究極の統合体験”を実現するために必要な機能実装の進捗に濃淡があることが分かりました。これにより、プロダクトごとに足並みが揃わず、統合体験の実現には至り切らない現実を見つめ直すことができました。
また、ローンチしたばかりでプロダクト成熟度の低い「TalentHR」領域についても、提供開始時点から共通の目線で開発を進められたため、各プロダクト間での完成度のばらつきはほとんどなくリリースできました。
しかしその一方で、「ジンジャー全体のビジョン」から逆算して設計していたため、実際に向き合うべきマーケット構造やニーズを十分に把握できていなかったことに気づきました。その結果、プロダクトロードマップが事業の進むべき方向とずれてしまっていたのです。
現在は「CoreHR」「TalentHR」の階層ごとに、各プロダクトビジョンから逆算したプロダクト成熟度に合った事業戦略を描き、事業目標に則したロードマップとなっています。また、開発部門に対しても、階層化したプロダクトビジョンや事業戦略を共通認識として、実装する機能の価値を説明できるようになりました。
コンパウンド戦略で目指すべきビジョンとは
現在のSaaS業界が直面する「コンパウンド戦略の罠」
現在多くのSaaS企業が、事業領域や市場を広げることを目的に、マルチプロダクトへの展開やコンパウンド戦略への転換を掲げるようになりました。しかし、その多くは単なる横展開に留まってしまっているのが実情です。
こういった事業の横展開は、すなわち新しい市場への挑戦を意味します。
その挑戦は、プロダクトや事業戦略に対する「社内理解の促進」「メンバーのケイパビリティ(能力・経験)の不足」、さらに「市場の変化や顧客像の多様化」など、これまで単一プロダクトで戦っていた時とは異なる、多面的な課題への対応を求められる取り組みでもあります。
結果として、「顧客価値の最大化」や「プロダクトの独自性強化」という本来の目的を見失ってしまい、特徴のないSaaSとなってしまうケースが少なくありません。
事業拡大するためにコンパウンド戦略を取ってしまったことが、結果として何を目指しているのか分からず、他の製品と同質化するような単なるプラットフォーム戦略となってしまい、SaaSとしての価値が下がってしまう罠に陥ってしまいます。
コンパウンド戦略こそプロダクトビジョンの構築が重要
コンパウンド戦略の行き着く先がプラットフォームだったとしても、プロダクト全体として「どのような独自性を持つのか」「どのようなMoat(競合他社から自社を、長期的に守るための持続的な競争優位性や参入障壁)を持つのか」をビジョンに組み込めていることが理想です。
コンパウンド戦略では、広大な市場に対して、SaaSとしての便益と独自性を両立したプロダクトビジョンを持つことが重要です。
そのビジョンが事業戦略としっかり連動していれば、社内での認識のズレや採用計画の乖離、マーケティング施策のバラつきが生まれることはありません。全員が同じ方向を向いて事業拡大に取り組むことができるのです。
ここで重要なのは、全体で定義したプロダクトビジョンが、各プロダクトの隅々にまで浸透し、行動や意思決定に自然と反映されていることです。
製品全体のプロダクトビジョンを定めたとしても、プロダクトやセールス・カスタマーサクセス、相対する顧客までそのビジョンを浸透させなければ、ビジョンと実態に乖離が生まれてしまいます。
結果として、ジンジャーでも実際に起きていた「各プロダクトのビジョンが定まらない」「新機能開発の優先順位が定まらない」「開発部門と事業部門の共通認識が不足」という課題に繋がります。
自社のプロダクトが短絡的・総花的にならないようなプロダクトビジョンを適切に作り、そのビジョンに向かって動いていく中で、ビジョンを事業の枝葉まで浸透させることが重要なのです。
プロダクトビジョンの階層化という解決策
その戦略として、細かくビジョンをすり合わせ共通認識を得て、自分たちの特徴を全面に押し出していく。そのために、プロダクトビジョンの階層化という解決策が1つあるのではないかと私たちは考えています。
コンパウンド戦略の本質は、単なる製品の横展開ではなく、顧客の課題解決をより包括的に、より深い統合体験を実現することにあります。そのためには、各プロダクトが独立して価値を提供するのではなく、相互に連携し、相乗効果を生み出すことが重要です。
この相乗効果を実現するために、効果を発揮したいレベルで階層を設け、各階層・各プロダクトごとのビジョンと価値観を持ち、それを具体的な機能や体験に落とし込む。プロダクトビジョンの階層化は、コンパウンド戦略の中で複雑になったとしても、社内での共通認識を醸成し、それを各プロダクトレベルでの具体的な行動に変換するための有効な手段だと考えています。
