初めてのジャーニーが始まった日
この物語の主人公は、入社1年目のバックエンドエンジニアの高井戸。あるプロダクトを作っている開発チームに所属しています。物語は、ある新メンバーが高井戸のチームにジョインするところから始まります。
「@channel おはようございます!今日も一日よろしくおねがいします」
そうチャットに書いたものの、おそらく誰も反応はしてくれないだろう。特に何かを期待しているわけではない。でも、僕は毎朝、挨拶をチャットに投稿することが習慣になっていた。このチームに初めて来たときから続いている。
僕が参加しているチームは、全員リモートワークで、2週に1回あるチームの定例会もWeb会議ツールで済ませることが多い。全員が集まることはほとんどない。会社としてリモートワークを許可するようになって、ほとんどのメンバーが思い思いの場所で仕事をするようになっていた。他の人はそれぞれプロジェクトを兼任していることもあり、リモートで済ませられる方が効率が良いみたいだった。
高井戸
この物語の主人公。転職1年目のバックエンドエンジニア。いつも変わらない日々を淡々と送っているだけだったが、ある人物がチームに参画してから、少しずつ動き方が変わり始める。
僕は、このチームに専任で参画しているため、特に言われたわけでもないけど会社に出社している。リモートが推奨されているとあって、人影はまばらだ。ひっそりとしたオフィスで、僕はため息をついた。この会社には転職で入って、もう1年が経つ。
会社が手掛ける新しいプロダクト開発に関わらせてもらえているものの、なんとなくチームはばらばらだし、僕自身もあまり開発に貢献できている感じがしない。
作っているのは、本人確認のためのサービスでeKYC(electronic Know Your Customer)という領域のプロダクトだ。eKYCとは、これまで紙の書類をやりとりして、契約相手が確かに本人なのかを証明していた行為をスマホやPC上だけでできるようにした仕組みのことだ。この領域はすでに先行している競合がいくつかあり、僕たちは必死で追いかけているといった様相で、利用者数は伸び悩んでいて、あまり状況は良くない。
僕がいつものように仕事の準備をしていると、のそっと人影が現れ、近くのスペースに着席した。挨拶も何もない。
「……」
僕と同様、プロダクトのバックエンドの開発を担っている嵐山さんだ。僕よりもはるかに年上に見えるが、実際の年齢は聞いたことがない。チームで、会社にわざわざきているのは、この嵐山さんと僕の2人だけ。でも、この通り特にコミュニケーションがあるわけではない。なんとなく影がある人で、話しかけづらい。
嵐山
バックエンド開発を担う、ベテランエンジニア。どことなく影があり、口数も少なくて馴染みにくい雰囲気。
今日はちょうど定例会なので、Web会議のためのアクセスURLを発行して、チャットに流す。やがて、チームメンバーが少しずつ繋ぎ始めた。
最初に現れたのは、リーダーの世田谷さんだった。
「おはよう」
短く一言。その言葉を残したのみで後はマイクをオフにして、自分の手元に視線を落としてしまった。世田谷さんは恐ろしく忙しい人で、常に何かワークをしている。ただし、「別のことをしていて聞いてなかった」ということが全くない人で、メンバーに求める仕事のクオリティも厳しい。僕はいまだ一度も褒められたことがない。
世田谷
チームのリーダー。いつも忙しくしていて、必要以上のことは決して口にしない。チームにも、仕事にも厳しい。
「あれ、繋がっているかな」
不意に、明るくやや甲高い声がした。画面の向こうに現れたのはプロダクトオーナーの三茶屋さんだった。明るい雰囲気がかえって馴染みにくく感じるのは、僕が三茶屋さんのノリについていけないからなんだと思う。
「三茶屋さん、大丈夫です。聞こえています」
そう言ってあげると、三茶屋さんは満足したようで、やはりマイクをオフにした。
三茶屋(さんちゃや)
プロダクトオーナー。いつも明るく、チームを盛り立てるムードメーカー。ついていくには相応のテンションが必要。
続いて現れたのは、気だるそうにキーボードをぽちぽちと押している女性だった。
「もう2週間たったの……? 何も進んでないわ」
デザイナーの豪徳寺さんだ。いきなりのカミングアウトに、世田谷さんは手をとめて、眉をひそめた。世田谷さんがいることに気づいたのだろう。豪徳寺はさっとカメラをオフにしてしまった。
豪徳寺(ごうとくじ)
デザイナー。会社の中でデザイナーが不足しており、いくつもの案件を兼任している。自分のアウトプットには自信がある。
「全員揃っているみたいですね。始めましょうか」
最後に現れたのは宮坂さんだった。フロントエンド側のプログラマーだ。
宮坂
フロントエンドのエンジニア。物静かで真面目な性格。自分の中に「こうあるべき」というストイックな基準を宿している。
「いや、今日は新しいチームメンバーが参加してくる日だ」
「お~、やっとチーム増強されるのね。フロント側でしょ? 宮坂さんだけではさすがに回んないからね~」
「デザインもできる人だとか」
「え! そうなの? やった、私はもうこのプロダクトお役御免でいいよね。この会社デザイナーが全然いなくて、兼務が大変なのよ」
豪徳寺さんの明るい声に、世田谷さんはまた眉をひそめて、画面の向こうからこちらをにらみつけてきた。
「しかし、遅いですね。そういえば、ここのURL伝わっているんですかね」
「さっき、俺から送っておいた」
世田谷さんがそう反応したちょうどそのタイミングで、接続者がもう一人現れた。カメラがオンになって現れたのは女性だった。
「あ、すごい。みなさん揃っている」
「今日から、このチームに参加することになった。和田塚さんだ」
「和田塚ちひろです。皆さん、はじめまして。よろしくお願いします」
全員、「よろしくお願いします」と、思い思いに返事する。和田塚さんは、1週間前に入社したばかりだという。
和田塚(わだづか)ちひろ
高井戸のチームに新しくやってきたフロントエンジニア兼デザイナー。たいてい穏やかな雰囲気だが、時に鋭い一言をチームにぶつける。
和田塚さんの挨拶もそこそこに、さっそく定例会はスタートした。世田谷さんが慣れた感じで、進行していく。まずは進捗確認から。
なんだかんだ、豪徳寺さんをはじめ、みんなきっちり進捗をあげてきている。僕は、自分の番が回ってこなければ良いのにと、いつものように祈る気持ちになった。もちろん、問答無用で、世田谷さんからの質問が浴びせられる。
「……なんだ、このタスクもできていないのか。こっちもか」
世田谷さんが管理しているスプレッドシート上にタスクがリスト化されている。タスクと担当がセットになっている。僕の名前があるタスクのうち半分くらいは認識していないものだった。この2週間のうちに、いつの間にか振られていたのだろう。チャットを遡ってみるが、全く見つけられない。ちなみに、タスク管理のスプレッドシートもオンラインのドライブに埋もれてしまって、世田谷さん以外誰も見つけ出すことができない状況になっている。
「相変わらずだな、高井戸さんは」
「あ、終わったらチャットでメンションくれる? ちょっと席外し」
そう言って、さっさとすべてをオフにする豪徳寺さんに、また世田谷さんは険しい視線を送るがすぐに僕のタスクの棚卸しの続きに取り掛かる。僕はただ言われるがままのサンドバックだった。
宮坂さんも、三茶屋さんも、もう関心を失っているみたいだ。それぞれ手元で何かワークをしているように見える。嵐山さんに至ってはいまだ声を聞いていない。僕は、世田谷さんに言われるがまま、自分のタスクリストにタスクを追加していった。いつものことだ。僕自身この状況になれていて、何も思わなくなっていた。もちろん、他のチームメンバーも同じで、関心がない。
ところが。そんな僕に関心を持ってくれる人がこのチームに今日はいた。
「なんかー。チームっぽくないですよね」
一瞬にして、場の空気が凍った気がした。