はじめに
皆さん、こんにちは。ブルーグラフィーの伊藤です。
さて、前回、前々回と、大企業で新規事業を進める上での構造的なハードルについてお話ししてきました 。今回は、その中でも特に多くのチームが直面する、分厚く、そして手ごわい「社内の壁」についてのお話です。
あなたの会社やチームでも、こんな経験はありませんか?
画期的なアイデアが生まれ、熱意あるメンバーが集まり、プロジェクトが走りだす。しかし、小さな一歩を踏み出すたびに、見えない壁にぶつかる。
「その外部ツールは、うちのセキュリティ規定で許可されていなくて…」
「先に経理の承認をもらってから、もう一度こちらに申請してください」
「法務の確認には、どんなに早くても最低2週間はかかります」
一つひとつのやり取りは丁寧で、誰も悪気があるわけではない。それなのに、プロジェクトは確実に勢いを失っていく。まるで、オフィスの中が、目には見えない地雷原や塹壕だらけの「戦場」のように感じられることさえあります。
この、どうしようもない閉塞感。前に進みたいのに進めないもどかしさ。それは、あなたのチームの能力や情熱が足りないからでは決してありません。
今回は、その「壁」の正体を解き明かし、正面から壊そうとするのではなく、もっと「しなやかに」乗り越えていくための新しい考え方をご提案したいと思います。
「社内の壁」の正体:それは「善意」で築かれた砦だった
私たちが「壁」と呼んでいるものの正体は、大きく分けて2つあります。1つは「レガシーシステム」、もう一つは「部門間のサイロ」です。

まず「レガシーシステム」とは、単に古い技術で作られたシステム、というだけではありません。それは、長年の事業活動の中で、改修や機能追加が幾重にも繰り返された結果、内部構造が極めて複雑化し、もはや誰も全体像を把握できていない「秘伝のタレ」のような状態になっているシステムのことです 。この「パッチワークのような状態」のシステムは、維持・保守に莫大なコストがかかるだけでなく、新しい技術やサービスと連携させることが非常に困難で、技術的な袋小路を生み出します 。
そして「部門間のサイロ」です。これは、第1回の記事でも触れましたが、会社が既存事業の効率を最大化するために、専門分野ごとに組織を最適化した、ごく自然な帰結です 。しかし、この最適化された構造が、部門を横断した連携を阻む分厚い壁となり、結果として部署ごとに同じような顧客情報を二重で管理したり、開発部門と営業部門で顧客に対する認識がまったく異なったりといった非効率や機会損失を生んでしまうのです 。
ここで大切なのは、これらの壁は、誰かの悪意によって作られた障害物ではない、ということです。むしろ、それらは会社がこれまで成功してきたからこそ築き上げられた、「善意の砦」なのです。
考えてみてください。厳格なセキュリティ規定は、会社の重要な情報資産と顧客の信頼を守るために作られました。複雑な稟議プロセスは、無駄な投資を防ぎ、コンプライアンスを遵守するために整備されました 。法務や経理、情報システムといった部門は、その砦を守るための、忠実で優秀な「門番」なのです。
あなたの会社は、巨大で成功したお城のようなものです。その高い城壁や厳格な門番たちは、既知の脅威から城を守るために完璧に設計されています。あなたの新規事業は、その城の外に新しい世界を求めて旅に出ようとする、小さな探検隊です。門番たちがあなたの行く手を阻むように見えるのは、彼らが意地悪だからではなく、城を守るという、与えられた使命を忠実に果たしているからに他なりません。
この視点を持つだけで、少し気持ちが楽になりませんか? あなたは、敵に攻撃されているわけではないのです。ただ、会社の「免疫システム」が、未知の存在であるあなたのプロジェクトに、ごく正常な防御反応を示しているだけなのです。
そして、この2つの壁は、独立した問題ではなく、互いに深く影響し合い、悪循環を生み出しています。例えば、ある部門が長年かけて自部門の業務に最適化した独自のレガシーシステムを構築したとします 。そのシステムは、他の部門のシステムとはデータ形式も技術も異なるため、簡単には連携できません 。この技術的な分断が、部門間の情報共有を物理的に不可能にし、組織的なサイロをさらに強固なものにしてしまうのです。そして、深まったサイロは、さらなる部門最適化されたシステムの導入を正当化し、壁をより一層高くしていきます。つまり、レガシーシステムは、部門サイロという組織の壁を物理的に具現化したもの、とも言えるのです。
よくある罠:なぜ「正面突破」は負け戦なのか
この「善意の砦」の存在を理解すると、なぜ「正面から壁を壊そう」とするアプローチがうまくいかないのかが見えてきます。
新規事業の担当者によくあるアドバイスに、「もっと情熱を持って、粘り強く説得しないと」「関係部署のキーパーソンを全員巻き込んで、ハンコをもらわないと」といったものがあります。しかし、この「正攻法」は、多くの場合、チームを疲弊させるだけの「負け戦」になってしまいます。
なぜなら、真正面から「ルールを変えてください」「この壁をどけてください」と要求することは、会社の免疫システムに対して「私は未知の脅威です」と宣言しているようなものだからです。その瞬間、砦中の警報が鳴り響き、門番たちはさらに守りを固めてしまいます。
その結果、どうなるでしょうか。第1回の記事でお話しした、「気の抜けたカレー風味のスープ」が出来上がります 。関係者全員の意見を聞き入れ、すべてのリスクを排除しようとした結果、当初の鋭い切れ味は完全に失われ、誰の心にも響かない、毒にも薬にもならない凡庸なアイデアだけが残るのです。
そして、このプロセスが奪う最も重要なリソースは、時間や予算だけではありません。チームメンバーの「熱意」と「スピード」です。新規事業にとってスピードは命です 。しかし、大企業の承認プロセスは、そのスピードを殺すために設計されているかのようです。この終わりの見えない消耗戦は、メンバーの心をすり減らし、「どうせ、うちの会社では無理だ」という諦めや冷笑主義を生み出してしまいます。
ここには、皮肉な現実が横たわっています。既存事業の「安全性」を担保するために作られた仕組みこそが、イノベーションという新しい挑戦にとって、最も「危険」で不向きな環境を作り出してしまっているのです。既存事業の成功を支えるルールは、予測可能性を高め、リスクを最小化することを目指します 。一方で、イノベーションの本質は、不確実性の中に飛び込み、実験と失敗を繰り返しながら、素早く学習することにあります 。
100億円の事業が1億円の損失を出すのを防ぐためのルールを、まだ売上が0円の事業に適用すれば、その事業は窒息してしまいます。会社の免疫システムは、身体全体を守ろうとするあまり、未来の成長に不可欠な新しい細胞(=新規事業)を攻撃してしまう。これこそが、「イノベーションのジレンマ」が、日々の業務レベルで起きている生々しい現実なのです。
